ホワット・ア・ワンダフル・ワールド

 日曜ののんびりした午後のことだった。

 イヤホンが断線した。

 そう思った。

 僕の耳元では、ルイ・アームストロングがちょうど空に架かるすばらしい虹について歌っていたところだった。僕は両耳からイヤーピースを引っ張り出した。スピーカー出力に切り替えたが、年季もののプレーヤーはうんともすんとも言わない。壊れてしまったのかもしれない。

 僕はベッドから起き上がったが、そこには妙な違和感があった。首を傾げて、ふと僕は気がついた。ベッドがまったく軋む音を立てなかったことに。そして、僕はもうひとつ決定的なことに気づいた。

 部屋があまりに静かすぎるのだ。

 壁はこんなに薄いのに。まるで、完璧な防音処理の施されたシェルターの中にたったひとり閉じ込められたかのような静けさだった。僕はなんだか胸騒ぎがして、手をぱんぱんと打ち鳴らし、足の裏で床をどたどたと踏み鳴らした。ところが、「ぱんぱん」も「どたどた」も僕の頭の中でしか再生されることはなく、相変わらず世界は静まりかえっていた。

 僕はスウェット姿のまま部屋から飛び出した。すっかり動顚していた。外に出た瞬間、同じ階の住人のほとんどが僕と同じように廊下に飛び出してきたらしいことが分かった。全員が途方に暮れ、無言のまま口をぱくぱくさせていた。左に目をやると、隣のOLのお姉さんは裸足のままだった。彼女の爪の上にへばりついた剥がれかけのペディキュアを見つめながら、僕は「なにやらとんでもないことが起こったぞ」と察知した。そのとき、僕の恋人がスーパーのレジ袋をぶら下げて階段を昇ってきた。彼女は僕らを見て驚いたような顔をした。このとき、この空間で、彼女だけが呑気だった。彼女はレジ袋を前腕のあたりに掛け、どうしたの、と僕に手を使って問いかけた。

 日曜ののんびりした午後のことだった。

 

 

 世界からすべての音が失われたという衝撃的なニュースは、ほとんどの人を混乱させた。しかし、事実としてどんな手段を使っても、どんな音も聞くことができないので、最終的には誰もがこのことを認めざるをえなかった。人類が聴力を失ったのか、それとも「音」自体が消えてしまったのかという論争は延々続いたが、これも結局答えは出なかった。僕の考えでは、どちらも正しい。人間が知覚するから「音」があるのだ。それを捉えられる人間が存在しない以上、「音」はやはり世界から失われたのだろう。もしかすると、永久に。

 音が聞こえないというのは不便なもので、いたるところに色々と影響が出た。

 身近なところから言えば、テレビ番組から多くのアナウンサーが姿を消した。彼らのほとんどは新しく手話を習得するのに難儀した。また、視聴者の側も多くは手話を理解することができなかったので、暫くの間、ニュース番組は延々と文字が流れるだけの時間となった。視聴者の半数はニュース番組を見るのをやめ、新聞をとったりインターネットのニュースサイトを閲覧した。

 音楽の楽しみを奪われたことは、僕にとって最もつらいことだった。すべてのピアノは音が出なくなり、コンサートホールではジョン・ケージの『4分33秒』以外の演奏を聴くことができなくなった。たくさんの楽器が廃棄され、ピアノの先生やヴァイオリンの先生は一斉に職を失った。

 CDは売れなくなった。最早プレーヤーの中で回転する以外の役目を果たさなくなったCDは、HMVやタワーレコードから姿を消し、空いた棚には代わりに古い無声映画のタイトルが並んだ。

 もちろん、音楽家は大量に失業することとなった。数々の著名な作曲家や演奏家、歌手が次々に自殺した。僕の好きだったロックバンドのボーカルは、自宅に火を放って死んだ。僕はインターネット上の匿名掲示板にアクセスし、世界の同志たちと悲しみを分かちあった。声による伝達方法が失われた現実世界では、毎日がうんざりするほどもどかしくゆっくりと過ぎていったが、インターネットの中だけでは今までと同じ速さで時間が流れていた。

 インターネットの中だけ、というのは訂正しなくてはならない。そうだ。彼女と僕の間では、すべてがこれまで通りだった。僕の恋人は生まれつき聴力を持たないのだから。

 

——落ち込んでる?

 彼女が手話で僕に問いかけた。

——それなりにはね。もともとあったものがなくなるっていうのは、やっぱり辛いことだよ。

——そっか。

 音が消えてからというもの、図書館には随分と来館者が増えた。手軽に楽しめる娯楽の幅が狭まったのだから、これは納得のいくことだった。世界中どこにいたって静かなのだから、折角なら楽しみの多い場所のほうがいい。

 彼女の背後で、陰気な顔をした司書が「図書館ではお静かに」の貼り紙を剥がした。司書は腹いせのように紙をびりびりに破いたが、やっぱり音はしなかった。聞こえなくなった「びりびり」はどこへ行ってしまったのだろう。僕の愛したすべてのうつくしい擬音語たちは失われてしまった。ガタガタも、しとしとも、トントンも消えた。僕らはこれから先、擬態語だけの世界で生きていかなくてはならないのだ。それはどうしようもなく絶望的なことのように思えた。司書の手の中で細かくなっていく紙の断面を見ながら、でも、これはどう見ても「びりびり」だな、と僕はせんのないことを考えた。

——何か考えてた?

——びりびりのことを。

 彼女が声を立てずに笑った。僕の考えていたことが分かったとは思えないから、僕の顔が面白かったに違いない。

 ねえ、と僕は言った。

——正直に言って、すごく悲しい。音が無くなってしまったことが。音のない世界は、あまりに静かすぎる。

——静かすぎる?

——静かだってことは、悪くないよ。嫌いじゃない。でも、寝ても覚めても静寂しかないんだ。淋しいし、ぞっとする。君の前でこういうことを言うのが相応しいかどうか僕にはわからないのだけど。

——私には静寂が分からない。

 彼女はふと笑みを消し、躊躇いがちにそう言った。

——私は静寂を知らない。今回、あなたたちが得たものののことを、私は知らない。

——失ったもの、ではなく?

 彼女はかぶりを振った。

——静かって、どんな感じ?

 僕は暫く考え込んでしまった。僕にとって、「静か」というのは「音がないこと」それ自体だった。でも、音そのものを知らない彼女にそう伝えたところで、何の意味があるというのだろう。僕が完全に手を止めてしまったのを見て、彼女は諦めたようにゆっくりと瞬きをした。

 彼女は閲覧席から立ち上がり、確保していた本の貸出手続きを済ませたあとで、僕を出口へと促した。多分、向かいの喫茶店でコーヒーが飲みたいのだ。

 僕は彼女と連れ立って大通りへと出た。休日の夕方で、人通りは多かった。音のない雑踏の中を、彼女の華奢なからだがくぐり抜けていく。無声映画のようだった。彼女が僕を振り向き、ほほえんだ。燃えるような残照が彼女の白い頬をあかあかと染めていた。なめらかな丸みがうつくしかった。

 そのとき、僕は唐突に気づいた。

 なんだ。そうか。

 僕は声を出さずに笑った。

 音は消えた。多分永久に。

 僕らと彼女は、既に同一なのだ。

 音は消えた。

 音のない世界に静寂はない。

 僕は彼女に駆け寄った。僕の笑顔を見て、彼女は不思議そうな顔をした。何か問いかけようとした彼女の両手を、僕は掴んだ。彼女は弾かれたように僕を見つめた。

 無音の雑踏の中で、僕らだけがただ黙って手を握りあっていた。道行く人が迷惑に立ち止まる僕らをじろじろと見た。長い間、彼女はぴくりとも動かなかった。ただ黙ったまま、僕の目を覗き込んでいた。それからゆっくりと僕の手を放して、彼女はほほえみを浮かべながら言った。

——ああ、今分かった。

 僕ももう一度ほほえんだ。目つきの悪い若者が、僕の背中に肘を当てた。痛かったけれど、不幸ではなかった。僕の頭の中では、ルイ・アームストロングが再び世界のすばらしさを歌いはじめた。

 歌い続けていた。いつまでも。

 

  了