探偵小説

 私は呆れ果てて尋ねた。

「ねえ先生、本当にお辞めになるんですか」

 先生は「うん、うん」などと頷くばかりで呑気に靴紐なんか結んでいる。有象無象船着場に群れをなし、見送るもの、見送られるもの、泣くもの笑うもの、入り混じって悲喜交々。

「探偵小説から探偵が居なくなってどうするんです。先生が居なくなったってお天道様はまた昇るでしょう。でも先生はどうだ。どうやったって食っていけないくせに。難事件を解決するほか能もないくせに。駆ければ転び、服を着せれば裏表、鋤を握れば豆だらけ、白魚みたいな手した常識知らずの偏屈男め。このノータリンのスットコドッコイ、骨の髄まで探偵のくせに、探偵をお辞めなすって、明日からどうするっていうんです」

「あのねえ、戸津川君」

 先生はのんびりと答えた。

「僕はもう都を上へ下へと駆けずり回って、怪盗を追っかけたりT型フォードを乗り回したり、婚約者を喪ったり滝壺へ飛びこんでみたり、女に刺されたり死んだ犬の飼い主なんか探すのに飽き飽きした。僕は君と違ってあんまり歳を取りすぎた、もう一秒だって探偵で居たくないのだ。ねえ戸津川君、君は善い助手だったね。君が僕を少しでも好きでいてくれるんなら、どうか止めないでおくれ。僕はこれぎり田舎に引っ込んで、ぶち猫だの鯖トラだのを膝の上に乗せて、爆発も人死にもない平凡なクリイム色の余生を過ごすんだからね」

「莫迦云わないでくださいよ、僕は初めッから先生のことなんか大嫌いですよ」

「うん」先生はまたにこにこ頷いた。

「知ってるよ、戸津川君。ご覧、僕は例の煙草をすっかり部屋へ置いといた。気が向いたらお喫みなさい」

「先生、僕はそんなもの要りません。煙草なんかけむたいもの、やりません」

「知ってるよ。だから、なんでもお好きにやりなさるといい。僕のものはみんなあげる。埃の積もった本棚も、あの素敵なパイプも、考え事に具合のいい安楽椅子もそっくちあげる。小説もやりたい放題お書きなさい。僕はのんべんだらり縁側に腰掛けて日向ぼっこしながら、雑誌に載った君の文を読むのを楽しみに待っているからね……」

 なんだかどうにもそれが今生の別れの言葉のように思えて、僕は一所懸命食い下がった。

「死体が足りないんでしょう。解決し足りないんでしょう。これは探偵小説なんだから、そうだ、もう三頁目だってのにこの小説にはちっとも死体が出てきやしない。だから、そんな莫迦な考えが浮かぶんです。そんなら僕が用意したげます、一から十まで。嵐の孤島、雪山のコテージ、山奥の限界集落、どうです、血の気が騒ぐでしょう。警察なんか呼んでやりませんよ」

「君は優しいね。そして若い。僕みたいな錘さえなけりゃどこまでも飛び立ってゆけるだろうね。僕の目にはね、ずうっと君の若さが眩しかった。さよなら、戸津川君」

 朗らかにそう言うと先生は立ち上がった。そして草臥れた重たいトランクケエスを携え、先生の謂うところの凡人・まるきりつまらない普通の人みたいに他の船客どもに混じって、振り向きもせずノソノソ舷梯(タラツプ)を上がっていった。僕は空っぽの両手を握りしめて先生を見送った。僕の靴底が磁石みたいに地面に吸い付いている間に、舷梯は畳まれてしまった。

 汽笛が鳴る。

 やがて甲板(デツキ)に小さな先生の姿が見えた。波の上に跳ね返る朝陽が眩しく、やたらめったら目に沁みて、逆光の中にぽつんと浮き上がるのっぽな先生の輪郭は淋しげだった。船は大きな鯨のように、のっそりと動き出した。

「先生」遠ざかっていく先生の背中に向かって僕は思わず声を張り上げた。

「探偵の居ない探偵小説に助手ばっかり取り残されたって惨めなだけですよ。先生の莫迦、莫迦、阿呆んだら。行っちまうんなら、僕も連れていってくださいよ」

 聞こえたのか聞こえないのか、先生は振り向いた。それから一寸(ちよつと)笑って首を振り、お決まりのふざけた鹿打ち帽を脱ぐと、それを私に力一杯放って寄越した。先生は大声で叫んだ。甲板の人々がギョッとした風に振り向いた。帽子は届かず海に落ちたが、声は幽かに届いた。

「だから今日からは君が探偵なのさ。万事宜しく頼むよ」

 

 そういうわけで、この小説の探偵は私である。